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養生訓に学ぶ

「養生訓」は、江戸時代の儒学者/貝原益軒(1630~1714)が晩年に執筆して健康の大切さを説いたものです。

現代でも十分通用する教えが含まれており、いくつか抜粋して紹介します。

 注)参考文献:「養生訓」全現代語訳 貝原益軒著/伊藤友信訳 講談社学術文庫

命の尊さ <巻第一_総論上1項>

自らの身体は、父母の恵みを受けて生れ育ったものであるが、もともとは天地を初めとした生命の繋がりから生じており、

けっして自分一人のものではない。

天地の賜物であり、父母の残してくれた身体であるから、慎んで大切にして天寿を保つように心掛けなければならない。

飲食・色欲を思いのままにし、元気を損ない病となり、天命を縮めて早世することは天地・父母への最大の不幸である。

長寿にして悦び楽しむことは、誰もが願望するところである。

そのためには、養生の方法を心得て健康をたもつことが人生で最も大事なことである。

欲にふけり身を滅ぼし命を失うことは愚かである。日々の生活を慎み、私欲の危険性を恐れ、細心の注意をはらって生活すれば、

長生きも出来て、災難も免れることが出来る。

道にしたがって身体をたもって、長生きするほど大いなる幸せはない。

人間の寿命と養生の大切さ <巻第一_総論上18&19項>

人間の寿命は百歳をもって上限とし、上寿は百歳、中寿は八十歳、下寿は六十歳である。

世間の人は、五十歳未満の短命の人が多い。十人のうち九人までは自らの不養生で体を害している。

五十歳にならないで早世することは、人生の道理も本当の楽しみも知らずに不幸なことである。

長生きすれば、楽しみ多くそれだけ益も多い。それゆえに養生の術を実践して六十歳以上の寿の域に到達すべきである。

(注:江戸時代の平均寿命は、30~40歳といわれています。乳幼児の死亡率が高かったために計算上導き出されたものですが、

それでも、50歳未満で亡くなる方が多かったようです。その中で、貝原益軒(1630~1714)は、85歳まで生きた長生きの人でした。

また、人間の最大寿命を百歳と述べていますが、現代においては、分子生物学の研究から120~125歳が有力説になっています。)

 

内敵には勇、外敵には畏れ <巻第一_総論上20項>

人間の身体は弱く脆く、空しく、心細いものであり、慎んで身を保つべきである。

まして内外から身を攻める敵が多いのだから、まことに危険である。

飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲、あるいは怒り、悲しみ、憂いという敵が攻めてくる。

これらの敵はすべて身内から生じて身を攻める欲だから内敵である。

なかでも飲食・好色は内欲から外敵を引き入れてくる、もっとも恐るべきものである。

内敵に勝つには、心を強くして忍耐することであり、強い精神力なくしては内欲に勝てない。

さながら猛将が敵をおしつぶすように勇ましく強く勝つことが良い。

一方、風・寒・暑・湿は、身の外から入りこんでわれわれを攻めるものであり、外敵である。

外敵に勝つには、それを畏れて早く防ぐことであり、この時ばかりは忍耐しないことが得である。

畏れて早く退くことがよく、勇敢である必要はない。

 

人生の三楽 <巻第一_総論上22項>

およそ人間には三つの楽しみがある。

一つは、道を行い心得違いをせず、善を楽しむこと。

二つは、健康で気持ちよく楽しむこと。

三つは、長生きして長く久しく楽しむこと。

いくら富貴であっても、この三つの楽しみがなければ真の楽しみは得られない。

善を楽しまず、養生の道を知らず、身に病いが多く、短命となる人は、この三楽を得られない。

人として生まれたからには、この三楽を取得する工夫がなくてはならない。

この三楽がなければ、どのように富貴であっても楽しめないのである。

 

睡眠と養生 <巻第一_総論上28項>

昔の人は三欲を我慢せよ、と言っている。三欲とは、飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲である。

飲食を節制し、色欲を慎み、睡眠を少なくすることは、みな欲を我慢することであるが、睡眠の欲をこらえて眠りを少なくすることが

養生の道である、とは意外と知られていない。睡眠を少なくすれば元気がよく循環して病気に罹らなくなる。

睡眠が多いと元気が停滞して病気になる。夜更けて床につくのは良いが、昼寝や日暮れて間もなく寝ると飲食したものが消化しきれないので

害になる。怠けて寝ることを好む癖がつくと、睡眠が多くなってこらえられなくなる。

常々睡眠を少なくしようと努めれば、習慣になって自然に睡眠が少なくなる。

日頃から少なく眠る習慣をつけることが大切である。

 

予防と養生 <巻第一_総論上36項>

「聖人は未病を治す」とは、病気にかかるまえに、予防的に注意して病気にかかりにくくする、ということである。

飲食や色欲などの内欲や風・寒・暑・湿などの外邪を慎まないために大病になると、思いのほか大きな悲しみと長い苦しみに苛まされる。

病気になると、食べたいものを食べず、飲みたいものも飲めず、身を苦しめ、心を傷つける。

予防的に養生をすれば病気にならず、目に見えない大きな幸せを得ることができる。

孫子は「良く兵を用いる者は赫々の功無し」という。

その意味は、上手に兵を動かす士官は、一見してわかる手柄がないということである。

それは、戦いの起こる前に戦わないで勝つことができるからである。

また「古の善く勝つは、勝ち易きに勝つなり」ともいう。

養生の道もまたこのようにしなければならない。

 

心は楽しく身体は動かすことが良い <巻第二_総論下9項>

人は心を楽しませて苦しめないことが最も良い。けれども、身体は大いに動かし労働することが良く、休養し過ぎてはいけない。

自分の身体を過保護にしてはいけない。美味しいものを食べ過ぎ、美酒を飲み過ぎ、色を好み、身体をいたわり過ぎて、

怠けて横になることばかり好むのは、すべて自分の身体をかわいがり過ぎることであって、かえって身体の害になる。

 

道を楽しむこと、長生きすること <巻第二_総論下18項>

貧賤である人でも道にしたがい楽しんで過ごすならば、大きな幸福であろう。

そうして暮らすならば、一日を過ごす時間も長く感じられて楽しみも多いであろう。

まして、一年の間は四季折々の楽しみがあり、一日一日に限りない変化があるものだから、一層長く興味深く過ごすことができよう。

こうして、年を多く重ねていけば、その楽しみは長くして、しかも長命になることは間違いないことであろう。

「論語」に「知者の楽しみ、仁者の寿(いのちなが)し」という言葉がある。

(注:知者は変化に適切に対処していくことを楽しみとし、仁者はすべてに安んじてあくせくしないので長生きする。)

毎日を楽しみながら長生きすることは、この境地に近づくものと言えるであろう。

 

完全無欠を追い求めない <巻第二_総論下36項>

すべてのことに完全無欠であろうとすると、自分の心の負担となって楽しめない。様々な不幸もこうした考えから起こる。

また、他人が自分にとって十分に仕えてくれることを求めると、他人の足らないことを怒り咎めるので、心の患いになる。

そのほか日常の飲食、衣服、器物、住まい、草木なども美しく非のないものを好んではいけない。

多少でも気にいったもので良い。完全無欠に良いものを好んではいけない。

これらは皆、気を養う工夫である。

 

酒はほろ酔い、花は半開 <巻第二_総論下40項>

万事が十分に満たされて、その上に何も付け加えることが出来なくなった状態は、心配の始まりと思って良い。

古人曰く「酒はほろ酔いに飲み、花は半開に見る」のが良いという。この言葉はもっともである。

酒を飲み過ぎると楽しみを破られる。飲んで少々物足らない方が楽しみもあって心配もない。

花が満開になると、盛りが過ぎて花心がなく、まもなく散ってしまう。

花の半開のときが盛りである、と古人はいう。

 

丹田に気を集める <巻第二_総論下48項>

臍の下三寸を丹田という。

腎間の動気(生気の原、十二経の根本、或いは、営気/衛気/宗気/元気と解釈される)といわれるものはここにある。

ここには生命の根本が集合している。気を養う術は常に腰を据えて気を丹田に集め、呼吸を静かに荒々しくせず、

事にあたるときは胸中から気を吐き出して、胸中に気を集めずに丹田に気を集めなければならない。

こうすれば、気は上らず、胸は騒がずに身体に力が養われる。

身分の高い人にものを言う時も、大異変に臨んで慌しい時でも、このようにするが良い。

やむなく人と論争する時でも、そうすれば、怒り過ぎて気を損なったり、気を浮つかせることもなく間違いは生じない。

芸術家が芸術に励み、武人が武術に励んで敵と戦う時にも、この心掛けを主とすべきである。

これは事に励み気を養うための良い方法である。

とにかく、技術を行う者、特に武士はこの方法を知らなくてはならない。

道士が気を養い、僧が座禅するのも、気を臍の下に集中する方法である。

これは、心を落ち着かせる工夫であり、秘訣である。

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